理想の暮らしを追い求めて
未来に残したい世界観を築く【前編】
そんな六月の青い鳥を運営する奈部昌子さんにインタビューしてきました。
お嫁に出たら家庭に尽くす?
私の道はどこなのか。
―「六月の青い鳥」を始められる前は何をしていましたか?
私は富山県高岡市出身なのですが、高校卒業後に東京へ上京し、長い間、富山を離れていました。
Uターンし、富山へ戻ってくるまでの間は、東京をはじめ全国6か所で、「カントリーキルトマーケット」というアメリカの生地の専門店を経営していました。
35歳で起業し、32周年のタイミングでそのお店を閉じ、2020年6月に「六月の青い鳥」をオープンしました。店内の一角には「カントリーキルトマーケット」のコーナーを設けています。
有難いことに、今でも県外からここで取り扱う生地を求めて足を運んでくださる方がいます。
―六月の青い鳥と言えば、カフェのイメージが強かったのですが、カフェをされていたわけではないんですね。どういった経緯・きっかけでキルトの世界に進んだのでしょうか?
子どもの頃、富山県では結婚するまでは習い事をしたりと好きなことに挑戦できましたが、お嫁に行ったら家庭に尽くす、という風潮がありました。
子どもながらにその考えに違和感を覚えた私は「女の人でも好きなことで仕事が出来るはず」「女の人でも人の役に立てるはず」と考えていました。パッチワークと出会ったのはちょうどその頃でした。
高校を卒業後、東京へ進学し、のちに結婚。その頃にもパッチワークをしていました。
ちゃんと勉強したいと思い、織物の学校へ入学したんです。離婚をしたこともあり、その頃はケーキ屋でアルバイトしながら、パッチワークの勉強をしていましたね。
好きなものをとことん。
キルト発祥の地・アメリカへ。
―卒業後に開業されたということでしょうか?
いえ、一般企業に就職し、頑張って働き、業績も伸ばすことに貢献できました。
すると別会社から引き抜きの話が来たんです。その話を受けて、転職し、30歳の時にパッチワーク発祥の地でもあるアメリカへ生地を仕入れに行くようになりました。
私がアメリカで仕入れた生地が話題になると、さらに別の会社から引き抜きの話が持ち上がります。
同じ業種だったこともあり、転職後3ヶ月間はアメリカで過ごしていいと言ってもらえ、給与を頂きながら、アメリカ横断を始めました。キルトのお店を見たり、美術館やアンティークの店を巡り、勉強を兼ねて、現地のキルト店で3週間だけ働いたりもしたんです。
その後、新しい会社で勤務を開始するものの、しばらくして退職。
退職後は再び渡米し、同じキルト店で3ヶ月間働き、帰国したあと、15坪の小さなお店をオープンしたんです。35歳の時でした。
―全国各地に6店舗も経営されていたとこのことですが、転機などはありましたか?
一番影響が大きかったのは、雑誌「オレンジページ」の特集でした。小さなお店だったにも関わらず、8ページもの特集を組んでもらえたんです。その誌面に通販でキット販売の紹介をしたら、大量の注文が入りました。
とても1人では対応しきれず、しかも今のように電子決済などはなかったので、お金を数えるために友達にバイトを頼まなきゃいけないほどだったんです(笑)。
それらが話題になり、神戸阪急から出店の申し出がありました。その申し出を受け、2店舗、3店舗と店舗が増え、全国各地に6店舗と拡大していきました。海外からカントリーキルトマーケットを訪ねて人もいるくらいファンになってくれる方が増え、SNSの時代ではなかったものの、取材してくれる雑誌が多く、その影響もあり認知されていったと思います。
―後編へ続く。