誰かの人生に寄り添える唄を届け
私の唄で人を幸せにしたい!【前編】
最愛のお母さまとの死別、出産、 新しい仲間との出会い。悲しいことも嬉しいこともすべてを唄に込めてたくさんの人に届け続けています。彼女のターニングポイントや原動力について伺いました。
父の影響で自然にはじめた民謡。
のちに仕事になるなんて。
ー民謡を始めたきっかけは何ですか?
きっかけは公務員だった父の趣味である尺八です。
家で毎日父の尺八を聴いていたので、2~3歳のときには自然に民謡を唄っていました。小学1年生から先生に民謡を教わり始めたんですが、あくまでも習い事のひとつで、まさか職業になるとは思ってはいなかったです。
先生からも「民謡を生業にしている人はあんまりいないし、難しいと思うけど、趣味でやれるといいね」と言われていたぐらいなんですよ。
その後、中学2年で子どもの全国大会で初出場で優勝しました。
でも思春期で民謡をやっているのが恥ずかしくて…。周りはバンドブームで、バンドやカラオケをしていたのに、自分は民謡。恥ずかしくて嫌だなと思ってました。
みんなの期待を背負い、
自分の力を信じた。
ー恥ずかしいと思いながらも、頑張り続けた理由はなんですか?
やめるって言い出せなかったのもありますね。みんなの期待を背負っていたのもあるし、自分の力を試してみたい!という気持ちもあって。
民謡との関わり方が変わったのは、高校2年生の頃の越中おわら節の全国大会かなと思います。その大会で優勝した瞬間に、見に来てくれた友達みんながステージまで走ってきて泣いて喜んでくれて…。
その時に、民謡をやってることを認めてもらえたなと思うことができて、そこから自信を持って続けることができましたね。
人生は1回きり。
母に背中を押され唄の道に。
ー民謡を職業にしようと思ったきっかけはなんですか?
10年間の挑戦の後、やっと夢だった内閣総理大臣賞を受賞し、日本一になりました。
そこから日本各地のステージからオファーを頂けるようになったんです。
当時は上市町社会福祉協議会で勤めていて、平日は会社に行き、休日は全国のステージに立つというハードな日々でした。そんな中、着物の着付けや裏方のことを全部やって支えてくれていた母が、ステージ3の悪性リンパ腫に。
病床の母に「年齢関係なく、いつ誰がこんな風になるか分からない。仕事をやめて唄一本でいきなさい」と背中を押されました。
そう言われて、人生は一回きり!と思い、次の日には会社に辞表を出しました。
―後編へ続く。