何のために生きるのか。
何が心を満たすのか。【前編】
大人だって《夢》を語れる。
ダイバシティとやまの始まり。
―ダイバーシティとやまというのはどのような団体ですか?
ダイバーシティとやまはその名の通り「ダイバーシティ」、特に<多文化共生>の普及啓発を行っているNGO団体です。2011年に発足をしました。当時はまだ「ダイバーシティ」という言葉も馴染みがなく、知人からはよく「え?なに?どこかに潜るの?」なんて言われることもあるほどでした(笑)。今ではすっかり馴染みある言葉になったなぁと感じています。
―どのようなきっかけで立ち上げることになったのでしょう?
ドリームプランプレゼンテーション、通称ドリプラと呼ばれる「大人が夢をプレゼンする」という大会にプレゼンターとして参加したことがダイバーシティとやまを立ち上げるきっかけとなりました。
ドリプラに参加することになったのも偶然が重なったことでして…。
そもそもドリプラは東京から始まったものなのですが、その創設者である福島正伸さんの講演会を聞きにいったんです。2011年の5月か6月ごろのことだったと思います。そして、その講演会の主催陣が「これから富山支部を立ち上げる」ということを聞き、ひょんなことからその実行委員会に参加しないかと誘われたんです。
軽い気持ちで参加したら、そこで「プレゼンターにならないか」と言われ、プレゼンするという流れになっちゃったんです…!!
ドリプラのプレゼンのルールとして「数字を使った表現」は禁止されていました。一般的には説得力あるプレゼンをするためには数字を組み込むことがほとんどなのに、ドリプラでは一切禁止。音と映像で表現するという特長がありました。
それは「人は数字で動くわけではないか」という理由からとのこと。
人は数字ではなく、「感動と共感」で動く。感動と共感を得られれば、夢を叶えるための協力者になってくれる。そうなったときにはじめて、数字を使ったプレゼンはすればいいのだと伺いました。
発表当日は、会場である富山国際会議場に約400名の聴講者がいて、その全員から「メンターカード」と呼ばれる応援カードがもらえる仕組みになっていました。
もちろん、私も例外なく、400枚のメンターカードを受け取ったんです。
そのほとんどに「ダイバーシティとやまを作って欲しい」という応援メッセージが書かれていました。
これはもうやるしかないと覚悟が決まった瞬間でしたね。
誰もが生きやすい社会とは?
そのためにできること。
―そもそもダイバーシティとやまを立ち上げたいと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?
ダイバーシティとやまを立ち上げる前から、多文化子どもサポートセンターで地域の外国籍の子どもたちのサポートに携わっていました。
それらの活動があったから、地域に外国籍の子ども達もたくさんいることを知っていたんです。
でも、その多くが居場所がないと辛い経験をしていました。
本来なら、キラキラした原石をたくさん持っている子どもたちで、母語も日本語も話せて、架け橋人材にもなれる、そんな可能性を秘めているのに…。それが活かされないままドロップアウトしてしまう子どもたちが多いんです。高校進学率も低く、そんな子どもたちの支援をしたい、と活動をしてきました。
それに加えて、私には発達障害の息子がいることも挙げられます。
障がいにもいろいろあって、最近では病名が付くわけでない「グレーゾーン」と言われる子ども達も増えています。
みんなそれぞれに良いところもたくさんあるのに、学校教育の現場に馴染めずに不登校になってしまったり、引きこもってしまう子が多いんです。
別に、特別な才能のあるスペシャルな子じゃなくても、子ども達がみんな生きやすい地域社会になって欲しい―。
そんな想いもあってダイバーシティとやまを立ち上げました。
―ダイバーシティとやまでは具体的にどのような活動をされているのでしょうか?
最近はコロナ禍ということもあり、活動しづらくなってきてはいます。
それでも継続し続けていることもあります。その代表的なもののひとつに「Light It Up Blue in Toyama」というイベントを毎年開催しています。
これは国連の定めた世界自閉症啓発デイ(4月2日)に合わせて、癒し・希望・平穏 を表す「青」をシンボルカラーにして、世界各地でライトアップなどが行われるもので、富山でも開催しています。
2012年からずっと世界遺産菅沼合掌集落をブルーにライトアップして、合掌家屋でワークショップを開催してきました。コロナ禍になってからは、ブルーライトアップは環水公園でも始まり、今年は海王丸も青くライトアップされる予定です。
バリアブレイクした素敵な皆さんが集まるイベントもサンシップで開催します。
多文化共生には段階(フェーズ)があると考えています。
最初のフェーズは「排除」。例えば他所から来た人に対して「出ていけ」、「来なくていい」といった態度がこれです。
次に「同化」。来てもいいけど、私たちと同じようにしてね、ということを指します。
その次に「すみ分け」。それぞれでいいけど、それぞれの範囲ででやりましょう、ということです。障がい者施設なんかでもこういうことは未だにありますよね。施設が山奥にあったり。
そして最後の段階が「共生」です。
同じ場所にいろんな人がいて、違いが力になる、これが「共生」だと思っています。
自分が歳をとったときに、どんな社会で生きていきたいか。それを考えて欲しいと思います。
日本語教師は
子ども時代からの夢。
―話は変わりますが、何故日本語教師になったのでしょうか?
「日本語教師になろう」と思うようになったのは、高校生の頃に見たテレビ番組の影響が大きかったと思います。
番組名も覚えていませんが、青年海外協力隊としてアフリカ働く人のドキュメンタリーでした。そのときの印象がずっと残っていたんです。
大学時代は、特段日本語教師を目指して学んでいたわけではなかったのですが、就職活動を迎えるころには「企業の歯車になっていいの?」と自問自答するようになっていったんです。当時は、まだバブルの終わりごろ。就活に対する不安はなく、どこにでも就職できる時代でした。
今から思えば、一度くらい企業で働けばよかったと思うのですが、結局内定を蹴って、大学卒業後は東京都・西早稲田にあったインターカルト日本語学校附属日本語教師養成研究所へ通い始めました。
大学を卒業してまで親の世話になるわけにはいかないと思ったので、新聞配達をしながら学費を払う「新聞奨学生制度」というのを利用し、日本語教師になりました。
―日本語教師になってみてどうでしたか?
富山でも日本語学校が開校すると日本語教師の雑誌で目にして、富山国際学院に就職しました。その時、学院は株式会社が経営母体でした。
でも、開校して3年して、その頃多かった中国人学生のビザが出ない時期が続き、会社は学校を辞めると判断したんです。
まだ残っている学生がいる。
このままだと彼らは日本という国を嫌いになって失意で帰国してしまう、それは避けたかった。
そこで、その時の有志の教師3名で手弁当でも続けようと教師の任意団体として富山国際学院を継続しました。
学院の家賃を無料にしてもらうなどの協力もあって、なんとか学院は継続し、その後、少しずつ学生が増えてきたので、全国でも珍しい特定非営利活動法人の日本語学校富山国際学院になりました。結婚し、出産して子育ての山も過ぎた2019年に理事長に就任しました。
私利私欲ではなく、人のためにだけ動き続ける宮田さんですが、その原動力はどこにあるのでしょうか?後編では彼女のパワーの源へ迫ります。
―後編へ続く。